東日本大震災により被害に遭った被災地では、震災の犠牲となった建物を解体するか震災遺構として保存するかをめぐる議論が続いていましたが、正式に保存する形となりました。
宮城県石巻市にある大川小学校旧校舎では津波により児童ら84人が犠牲となりました。
震災の記憶を風化させず、後世に教訓を伝えるために保存するよう唱える住民もいる一方「解体」を望む住民もいます。
当時6年生だった長女を失った男性は、今も校舎に大型バスで見学に訪れて記念撮影を取る多くの人がいる光景を見ると悲しみが生じるとうったえています。
あの日、あの時、学校と地域で何が起き、人々はどう行動したのか。その報道記事を追ってみた。
一連の報道の中、河北新報社は震災からほぼ半年となる9月8日、大川小学校の惨状を証言をもとに克明に検証しており、これだけの犠牲者を出した要因にも触れている。
下図に小学校のマップとともに、当時の津波浸水予想図(市のハザードマップ)を貼った。
河北新報社は、釜谷地区はこれまでに津波が到達した記録がなく、住民は大川小学校がいざという時の避難所と認識していたこと、しかも、山と堤防に遮られていて津波の動向が把握できない環境だったこと等が避難を遅らせた要因として挙げた。
これらを勘案すると、宮城県も石巻市も昭和三陸大津波レベルなら大川小学校には津波が来ないことを公言し、それ以上の大津波への対応は全く考慮していなかったと言わざるを得ない。
もし大津波が来たらここは危険との意識が住民に無かったのはそのためだったと言える。
大地震だったにもかかわらず、5分で完了可能な裏山への避難が選択肢の後方へ押し下げられてしまったのは、大川小学校に集まった人々のほとんどに危機意識が欠けていたためであり、そのように仕向けてしまった一因は行政にあったと推察できる。
またいつ来るかわからない自然災害を、事前に防ぐには、
前回の教訓をもとに、震災による津波の災害の実態を風化させていはいけない。と思いました。